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白川発電所 No.02
調査報告書一覧 > 報告書 No.01 / No.02

調査実施:2005年12月 報告書作成:2006年7月11日
       

現在の白川発電所

 現在この白川発電所は日窒鏡工場に代わって遠く離れた熊本県水俣市のチッソ水俣製造所に送電しており、水俣製造所動力課動力係(第一変電所)により遠方監視制御され無人運転となっている。発電機は2式あり、それぞれの横軸フランシス水車による駆動で、最大許認可出力9,000kw、常時4,400kwの発電をしている。チッソ株式会社はこの白川発電所以外にも熊本、鹿児島、宮崎の3県に12ヶ所の水力発電所を持っており、それらの合計最大許認可出力は93,200kw、常時30,600kwにもなる。しかしカーバイトや硫安を生産していた日窒時代と違い、現在のチッソ水俣製造所で生産される製品は大きく変化しているため、それほどの電力を必要としていない。そのために水俣製造所で使用しない余った電力は、九州電力に余剰送電されているとのことだ。

見学会

 それでは白川発電所の内部を見てみよう。当日はチッソ水俣製造所動力部水力課のM氏に施設内を案内して頂いた。まず案内されたのは導水管の頂上にある沈砂池。この導水管最上部からは、白川が作る深い谷を挟んでほぼ同じ高さの位置にある国道57号線がよく見える。逆に国道からこの地点は一部しか見えず、ほとんどが生茂った木々によりその存在は分からない。そのような山の急斜面に、このような大きな池が隠れているとはちょっと驚きだ。
 

    
  

 この施設の役割は、導水トンネルにより運ばれてきた水が導水管に吸い込まれる前に、水の中に混じっている砂などを取り除くことだ。まず上流の南阿蘇村で取水された水は約3kmに及ぶ導水トンネルを通ってこの沈砂池と呼ばれる長さ約100m、最大幅約15m、最大深さ約5mになる水槽に流れ込む。細い水路を勢いよく流れてくる水流は、この容量の大きい水槽に流れ込むことで緩やかな流れになり、水に含まれている砂やその他のゴミが沈殿しやすくなる。沈殿した砂は水槽最深部に設けてある排砂路から、バルブの開閉により水圧を利用して余水路へ排出される仕組みになっている。
 


 
  
 
 沈砂池を後にした流れは最後の塵取装置の網目を潜り、導水管(鉄管路)に吸い込まれて一気に斜面を駆け下りる。スゴイ角度で谷底へと下っていく鉄管の先には、白川と発電所の建物が小さく見える。この鉄管をよく見てみるとリベットで組まれているが、沈砂池などの土木構造物と同様に大正3年の竣工当時からのモノだ。
 
    
 
 いよいよ発電所の建物へ。フェンスの外からだと建物の一面しか見ることが出来なかったので、まずは建物をぐるりと回り全体を見てみるが、やはり煉瓦の鮮やかさが印象的だ。それもそのはずで、実は2004年に煉瓦表面の清掃とコーティングや、窓枠などをアルミサッシに交換するなどの修復・補修工事を行っているとのこと。ちなみに円窓にある星型のデザインには特に意味はないそうだ。熊本県の「近代化遺産調査報告書」には補修前の写真があるが、円窓のデザインは全く異なっている。
 
  
 
  
 
 建物の外にいても「ゴーーーッ!」という体に直に響いてくるような重低音を感じることができ、この発電所が稼動していることがはっきりと分かる。一歩建物の中に入ると、さらにその重低音に体が包まれる。決して耳障りな騒音ではないが、稼動中の巨大な発電機から発生するその音はかなりの迫力だ。建物の外観をみたときに「随分と大きな窓が沢山あるな」と思っていたが、実際建物内部へ入っても窓が大きく感じられる。最近の発電所は窓も無いような建物が多いと思うが、このような大きな窓が沢山あるのはなんだかちょっとステキではないか。明るい室内には発電機と水車が1号機・2号機と2式並んでおり、窓の外に見える2本の導水管がそれぞれ繋がっている。発電所内部の電気的な設備はほぼ全て新しい物に更新されており、当時のものはないとのことだった。
 

 
    
 
 建物内部の構造だが、この発電機と水車がある大きなホール以外に、制御室や変電施設、バッテリー室などの小部屋が設けられている(見学は出来たが内部の写真は非公開)。バッテリー室には、自動車のバッテリーより大きなモノがたくさん並んでいるのだが、発電所に何故バッテリーが?と思った。しかし説明を受けるとナルホドだ。発電所内の電灯や機器などの電気は、全て自分の所で発電した電気でまかなっている。しかし、発電機はメンテナンスやトラブルなどで停止することがある。そうなると発電所自体も“停電”してしまうのだ。“発電所が停電”とはなんだか面白い事態だが、そうなると発電所自体の制御もできなくなるわけで、そのような事にならないように発電機の停止時の電源としてバッテリーがあるとのことだ。

チッソにまつわる「電気」の話

 今となってはHz(ヘルツ)フリーの電気製品がほとんどで意識することも少ないが、コンセントの100ボルトの(交流)周波数は東日本と西日本で異なっており、東日本では50Hz、西日本では60Hzとなっている。東西で周波数が異なるのは、国内で発電が行われるようになった明治時代からのものだ。当時、東京では50Hzのドイツ製発電機、大阪では60Hzのアメリカ製発電機をそれぞれ導入し、そのまま国内の周波数を統一しなかったために、現在でも2つの周波数が存在する事態になったようだ。

 チッソの始まりは曽木発電所であり、その発電機はドイツのシーメンス社の製品だ(シーメンス社製の発電機を採用した理由は報告書「曽木発電所遺構」を参照)。そもそもの始まりが50Hzであるため、その後のチッソの発電所は50Hzになった。チッソの工場があることによって水俣は早い時期に電灯が整備されることになるが、電力はチッソの発電所によるために、西日本でありながら水俣市だけが50Hzという時期もあった。後に60Hzとなるが、チッソの工場内、関連施設や社宅などはチッソの発電所の電気を使うため50Hzのままである。最近の電化製品は一部を除きほとんどがHzフリー(50Hz・60Hz両対応)だが、少し前までは周波数が違うと使えない電化製品が多く、チッソの社員には苦労もあったようだ。例えばレコードプレーヤーなどは周波数によって回転数が変わってしまい、そのままでは使用できず、プーリーを交換して回転数を合わせなければならない。また、蛍光灯(インバーター式を除く)も周波数が違うと使用できない。そのため水光社という生協(チッソの従業員の共同購入組合としてスタートした生協)では、蛍光灯のコーナーには「社宅用」として50Hzの蛍光灯も並んでいたという。社宅に住んでいた社員がマイホームを建てて引越しする場合は、電化製品の買い替えなど結構大変だったそうだ。

白川発電所

 大正3年に日窒鏡工場への電力供給の為に作られた白川発電所。しかし大正末に日窒鏡工場が無くなって以降も、80年に渡り発電し続けチッソの工場に電力を供給している。一私企業が100年近くも昔に発電所をつくり、機器の更新はあるものの当時の姿のまま現在も大切に使い続けているというのはそうある話でもないだろう。煉瓦建築として、産業遺産として、文化財的にも十分貴重であると思うし、日窒鏡工場の忘れ形見としても、この先もずっと現役で発電を続けてほしいものだ。

 

 
完 

 

参考文献
■「日本窒素肥料事業大観」日本窒素肥料株式会社文書課/編 1937年
■「野口遵」吉岡喜一/著 1962年

取材協力
■チッソ株式会社


この報告書を作成するにあたり、ご理解・ご協力頂いた皆様に深く感謝申し上げます。